ここでお寺の鳳来寺と鳳来寺山を、地元新城市の案内から引用させてもらいます。
(以下引用文です。↓)
名勝及び天然記念物:鳳来寺山
種別:国指定名勝及び天然記念物(地質・鉱物)
面積:1,257,663?(正方形なら1121メートル四方・・・亭主註)
指定年月日:昭和6年7月31日
所在地:新城市門谷字鳳来寺地内
説明:鳳来寺山は暖・温帯両気候を併せ持つ地域に位置し、侵食によって形成された松脂岩や流紋岩を中心とした火山岩類の複雑な地形と多種多様な動植物が生育する自然豊かな状況から、国の名勝地並びに天然記念物となっている。代表的な動物は「コノハズク」や「モリアオガエル」、植物では「ホソバシャクナゲ」や「ビロードノリウツギ」などが見られる。
さらに古くから山そのものが信仰の対象となり、修験者の聖地、真言・天台宗の道場として中世から江戸時代を通じて栄えた鳳来寺が所在する山でもある。国指定無形民俗文化財「鳳来寺田楽」の伝承、重要文化財(建造物)「東照宮」や「鳳来寺山門(仁王門)」をはじめ、鳳来寺本尊の薬師如来像に祈願して徳川家康を授かったという伝承、日本一の高さを誇る杉の大木・傘杉、棟方志功が手がけた鐘、歌人の句碑など、数多くの歴史的遺産・事象を有する山としても有名である。
また、鳳来寺山の持つ魅力に1,425段の石段がある。この階段の両側に立ち並ぶ杉木立は、歩く人々の心を魅了している。ここは、新城を代表する観光地であり多くの著名人が訪れ、その景色に魅せられている。古くから松尾芭蕉、若山牧水、種田山頭火、依田秋圃、糟谷磯丸などの歌人、山岡荘八、松本清張、井上靖ら作家も訪れている。名所として絵画、テレビや映画のロケ地、文学作品に風光明媚な風景は取り上げられ、山内は歴史、文化、自然を一度に見て・知って・感じて味わうことができる魅力が満載な場所となっている。
(引用終了)
小生は今回は自然との時間は共有しましたが、歴史的な面は殆ど触れずにこの記事を進めて来ています。
歴史の刻み込まれた、長い石段のぼりをしないで来ていますので、その点はご容赦ください。
レポートを続けます。
鷹打場 ↓
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この場所で行き止まりになってしまいますが、岩尾根の先端に位置するここに来てみると胸のすくような景色があります。
高土(たこうど)山 ↓
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先日違った名前で呼んでしまい、失礼した高土山(たこうどさん=583m)が良い姿で見えています。
近いうちに一度、ご挨拶に行かねばならないと感じている山です。
東照宮まで巻き道のようなところを行く ↓
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鷹打場から東照宮に向かいますが、前半部分は山腹をへつるような道で、ほぼ等高線沿いに歩きます。地図の表記とは違う位置に道が通っています。
ヤブツバキ ↓
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花は小さいながらも、我が家のものとは違って、汚れがぜんぜんなかったようです。
アオキ ↓
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良い色に色づいたアオキの実を見て行きます。
東照宮を鳥瞰 ↓
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日本三東照宮(日光・久能山・ここ)の一つを、恐れ多くも足下に眺めます。
東照宮本殿 ↓
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慶安4年辛卯年(1651)9月17日に落成創祀され、それ以後は17回の修理を経て今の姿があるそうです。(建築後361年経過)
祭神は徳川家康で、贈正一位源家康朝臣となっています。
東照宮拝殿 ↓
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ここで家康の遺訓を思い出さなければなりません。
人の一生は重荷を負て遠き道を
ゆくが如しいそぐべからず
不自由を常とおもへば不足なし
こころに望おこらば困窮したる時を
思ひ出すべし
堪忍は無事長久の基
いかりは敵とおもへ
勝手ばかり知てまくる事をしらざれば
害其身にいたる
おのれを責て人をせむるな
及ばざるは過たるよりまされり
(こんな立派なことをあの家康が本当に言ったのでしょうか。)
石の鳥居にセッコク ↓
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神官の方と話していたら、このセッコクのことを教えてくれました。あたりは杉の大木が立ち並び、実に森閑とした雰囲気でした。
宮前の紅梅 ↓
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東照宮前から本堂に通じる参道沿いに、紅梅が咲いていました。
ユキノシタ ↓
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今回は通って来ませんでしたが、1425段の石段沿いにこの草が良く生えていました。
本堂への道 ↓
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本堂まで広い道が通じています。
狛犬?
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随分変な姿の狛犬?ですね。
実はこれは狛犬ではなくて虎だそうです。小生の想像ですが、家康についてこんな言い伝えがあります。
それは:
家康公が誕生した時、鳳来寺の本堂に祀ってあった真達羅大将(寅の神)が忽然といなくなった。そして、家康公が亡くなられた時、突然、真達羅大将が現れた。
だれ言うとなく、家康公は真達羅大将の生まれ代わり(化身)だと・・・・・・・・・
というものでした。
それで、狛犬の代わりに狛寅(とら)に衛兵をさせることになったのでしょうか。
本堂 ↓
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ここが昭和49年に再建された本堂ですが、コンクリート製のようです。
東屋に扁額 ↓
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本堂前に東屋が有り、そこに種田山頭火の句が懸かっていました。
小生は、昭和58年の初夏に本堂前の玉砂利の上にテントを張り、夕闇が迫るころにその中で仏法僧の鳴き声を何度も聞いたことがあります。
その後8〜10年してから、今度はこの東屋の屋根の下にテントを張り、仏法僧の声をもう一度聞こうとして一夜を明かしましたが、その時は聞くことが出来ませんでした。
(以下引用文です。↓)
名勝及び天然記念物:鳳来寺山
種別:国指定名勝及び天然記念物(地質・鉱物)
面積:1,257,663?(正方形なら1121メートル四方・・・亭主註)
指定年月日:昭和6年7月31日
所在地:新城市門谷字鳳来寺地内
説明:鳳来寺山は暖・温帯両気候を併せ持つ地域に位置し、侵食によって形成された松脂岩や流紋岩を中心とした火山岩類の複雑な地形と多種多様な動植物が生育する自然豊かな状況から、国の名勝地並びに天然記念物となっている。代表的な動物は「コノハズク」や「モリアオガエル」、植物では「ホソバシャクナゲ」や「ビロードノリウツギ」などが見られる。
さらに古くから山そのものが信仰の対象となり、修験者の聖地、真言・天台宗の道場として中世から江戸時代を通じて栄えた鳳来寺が所在する山でもある。国指定無形民俗文化財「鳳来寺田楽」の伝承、重要文化財(建造物)「東照宮」や「鳳来寺山門(仁王門)」をはじめ、鳳来寺本尊の薬師如来像に祈願して徳川家康を授かったという伝承、日本一の高さを誇る杉の大木・傘杉、棟方志功が手がけた鐘、歌人の句碑など、数多くの歴史的遺産・事象を有する山としても有名である。
また、鳳来寺山の持つ魅力に1,425段の石段がある。この階段の両側に立ち並ぶ杉木立は、歩く人々の心を魅了している。ここは、新城を代表する観光地であり多くの著名人が訪れ、その景色に魅せられている。古くから松尾芭蕉、若山牧水、種田山頭火、依田秋圃、糟谷磯丸などの歌人、山岡荘八、松本清張、井上靖ら作家も訪れている。名所として絵画、テレビや映画のロケ地、文学作品に風光明媚な風景は取り上げられ、山内は歴史、文化、自然を一度に見て・知って・感じて味わうことができる魅力が満載な場所となっている。
(引用終了)
小生は今回は自然との時間は共有しましたが、歴史的な面は殆ど触れずにこの記事を進めて来ています。
歴史の刻み込まれた、長い石段のぼりをしないで来ていますので、その点はご容赦ください。
レポートを続けます。
鷹打場 ↓

この場所で行き止まりになってしまいますが、岩尾根の先端に位置するここに来てみると胸のすくような景色があります。
高土(たこうど)山 ↓

先日違った名前で呼んでしまい、失礼した高土山(たこうどさん=583m)が良い姿で見えています。
近いうちに一度、ご挨拶に行かねばならないと感じている山です。
東照宮まで巻き道のようなところを行く ↓

鷹打場から東照宮に向かいますが、前半部分は山腹をへつるような道で、ほぼ等高線沿いに歩きます。地図の表記とは違う位置に道が通っています。
ヤブツバキ ↓

花は小さいながらも、我が家のものとは違って、汚れがぜんぜんなかったようです。
アオキ ↓

良い色に色づいたアオキの実を見て行きます。
東照宮を鳥瞰 ↓

日本三東照宮(日光・久能山・ここ)の一つを、恐れ多くも足下に眺めます。
東照宮本殿 ↓

慶安4年辛卯年(1651)9月17日に落成創祀され、それ以後は17回の修理を経て今の姿があるそうです。(建築後361年経過)
祭神は徳川家康で、贈正一位源家康朝臣となっています。
東照宮拝殿 ↓

ここで家康の遺訓を思い出さなければなりません。
人の一生は重荷を負て遠き道を
ゆくが如しいそぐべからず
不自由を常とおもへば不足なし
こころに望おこらば困窮したる時を
思ひ出すべし
堪忍は無事長久の基
いかりは敵とおもへ
勝手ばかり知てまくる事をしらざれば
害其身にいたる
おのれを責て人をせむるな
及ばざるは過たるよりまされり
(こんな立派なことをあの家康が本当に言ったのでしょうか。)
石の鳥居にセッコク ↓

神官の方と話していたら、このセッコクのことを教えてくれました。あたりは杉の大木が立ち並び、実に森閑とした雰囲気でした。
宮前の紅梅 ↓

東照宮前から本堂に通じる参道沿いに、紅梅が咲いていました。
ユキノシタ ↓

今回は通って来ませんでしたが、1425段の石段沿いにこの草が良く生えていました。
本堂への道 ↓

本堂まで広い道が通じています。
狛犬?

随分変な姿の狛犬?ですね。
実はこれは狛犬ではなくて虎だそうです。小生の想像ですが、家康についてこんな言い伝えがあります。
それは:
家康公が誕生した時、鳳来寺の本堂に祀ってあった真達羅大将(寅の神)が忽然といなくなった。そして、家康公が亡くなられた時、突然、真達羅大将が現れた。
だれ言うとなく、家康公は真達羅大将の生まれ代わり(化身)だと・・・・・・・・・
というものでした。
それで、狛犬の代わりに狛寅(とら)に衛兵をさせることになったのでしょうか。
本堂 ↓

ここが昭和49年に再建された本堂ですが、コンクリート製のようです。
東屋に扁額 ↓

本堂前に東屋が有り、そこに種田山頭火の句が懸かっていました。
小生は、昭和58年の初夏に本堂前の玉砂利の上にテントを張り、夕闇が迫るころにその中で仏法僧の鳴き声を何度も聞いたことがあります。
その後8〜10年してから、今度はこの東屋の屋根の下にテントを張り、仏法僧の声をもう一度聞こうとして一夜を明かしましたが、その時は聞くことが出来ませんでした。